- あの人は、私なんかよりもっと上手…
- あの人は、私よりも美人…
- あの人は、私よりも成功している…
- あの人の息子は、うちの息子よりも優秀…
あの人は、あの人は、あの人は…。それに比べて、私って…。と、いつも他人と自分を比べてしまうあなた。
そう、そこのあなただ!
気持ちはわかります。だってそれは、人間なら誰しも備わっている本能ですから。他人と比べて一喜一憂してしまうのは、あなたが正常な感覚を持った人間であることの証でもあります。
しかし、あえてボクは、あなたにこう言いたい。
「いつまでそのステージにいるんですか?」と。
学生なら仕方ない。決められたレールの上を歩くサラリーマンも仕方ない。でも、あなたはクリエーターでしょう?自分で、自分の生き方を決めた側の人間でしょう?
にも関わらず、いつまで他人と自分を比べているんですか?そんなステージ、さっさと飛び越えてしまいなさいよ。
おー、今回はお説教モードか?
いや厳しいのはここまで!あとは優しく行くよ 笑
あなたに必要なのは、「メタ認知」です。その厄介な感情を、当事者としてではなく、まるで他人事のように、外側から見るきっかけが必要なのです。
他人と比べる本能は、元々は人間に必要だったから備わっています。しかし、現代社会においては、「バグ」として機能してしまっています。
その事実に気づかない限り、あなたの感情は、いつまでも本能の赴くままに振り回されてしまう。その業を断ち切るために、あなたに「メタ認知」という気づきを与えましょう。
この記事を読めば、他人と比べるクセが、いかに愚かな思考かを理解できます。あなたが、自分自身のために生きられるきっかけになれば幸いです。
かなり仮説ベースの話も出てくるので、「そういう考え方もあるんだな」と聞いてもらえればと
人間が他人と比べたがる深い背景
なぜ人は、他人と比べてしまうのでしょう?良くない考え方だとわかっているのに、どうしてか抜け出せない。
端的に言えば、人間には「自分の社会的地位を確認したがる習性」があるからです。問題は、なぜそんなけったいな習性があるかですね。
その理由をお話ししますが、まずは、背景から入りましょう。なかなかに深い話です。あなたにちゃんと納得して前に進んで欲しいので、丁寧に説明していきます。
前置きが長くなるけど、ぜひ飛ばさずに読んでね!
人間の脳は太古の昔にチューニングされたまま
「他人と比べたがる傾向」は、言うまでもなく、「脳」の働きによるものですね。主語は「脳」。脳が、あなたと他人を比べたがっているわけです。
そして、脳も臓器の1つですから、進化の産物。ここがポイントになってきます。
脳の働きは目に見えないのでわかりづらいのですが、「ゾウの鼻」や「キリンの首」が100年や1000年で伸びないように、人間の脳もまた、100年や1000年じゃ変わりません。
脳の思考回も、「ゾウの鼻」や「キリンの首」と同じく、ウン万年もの世代交代を経て、紆余曲折の末に今の状態になっているわけです。
人間の思考回路は、少なくとも数万年前にチューニングされたままだ
え、そうなの!?
数万年前…って、どんな時代だ?
当時の人類は、まだ農業を始める前。狩猟採集で暮らしていました。日本だと縄文時代か、それより前かに当たりますね。
人口は今よりずーっと少なく、また人類は、現在のように自然をコントロールする術は持っていませんでした。他の動物と同じように、自然の中で生かされていました。
そこから、人類の文明は急速に発展。数万年前に最適化された思考回路は、現在の様変わりした社会には、必ずしも適合しません。
遠い祖先にとっては最適解だった思考回路のいくつかは、現代ではバグとなって現れてしまうのです。
我々の祖先は血縁集団で暮らしていた
もう少し、我々の祖先の暮らしぶりに思いを馳せてみましょう。狩猟採集民だった祖先は、どのような暮らしをしていたのでしょうか?
数万年前は、現在のように大規模な社会システムは存在しません。もちろん、インフラも存在しません。
我々の祖先は、数十人くらいの血縁集団で、助け合って暮らしていたと考えられています。現代とは異なり、全員が顔見知りの親戚同士です。
人間は、「社会的な動物」と言われますよね。これは、「群れで助け合って生きていくタイプの動物だよ」を、ちょっと難しく言っているだけ。
- ある成人男性は、草原へ狩りに
- ある未婚の女性は、山へ果物や野菜を取りに
- ある母親は、乳飲児の世話をし
- ある少年は、履物の手入れをし
- ある少女は、衣服の手入れをし
- ある年配の女性は、食べのもの煮炊きをし
- あるお爺さんは、子供達に道徳を教えている
というような具合。
もしあなたが体調を崩しても、仲間の誰かが助けてくれるでしょう。もちろん、あなたが回復したら、今度はあなたが他の誰かを助けるのです。
顔見知り同士が助け合い、補い合い、持ちつ持たれつで暮らしている。我々の遠い先祖は、こういう社会を生きていたんですね。
めっちゃ田舎の小さい集落で暮らしているイメージ?
大体はそうね。それの原始版って感じ
集団で生きていくために培った本能
太古の昔、我々の祖先にとっては、「社会=親戚集団」です。この顔見知りの仲間が全てだったわけです。
そんな集団から、あなた1人追い出されたらどうなるでしょうか?
- もうあなたのために、食糧をとって来てくれる仲間はいません
- もうあなたのために、履物や衣服を用意してくれる仲間はいません
- もうあなたのために、料理をしてくれる人はいません
- あなたが体調を崩しても、誰も助けてくれません
いわゆる「村八分」というヤツですね。
追い出されれば、重大な命の危機。だけでなく、配偶者を見つける機会もなくなるので、子孫も残せなくなる。まさに、生命として窮地に立たされるわけです。
この仲間内で、いかにして円満な関係を築き、集団から追い出されないようにするか。あわよくば良いポジションを占めて、集団の中でより厚遇を受けるか。
その術が、本能として備わっているのです。
ここまでが前提の話!
なげーよ! 笑
けど、興味深い話ではあった!
命を守るために他人と比べていた?
さて、前提が出揃ったところで、「なぜ他人と比べてしまうのか?」の真相に迫っていきましょう。
人間は集団で助け合うことで、生存率を上げてきた動物です。集団から追い出されることは、「死」を意味するわけです。
集団から追い出されないために、
- 仲間から嫌われない
- 仲間に「自分が役に立つ」と示す
本能が、脳にはこれでもかとこびりついています。
前者の「嫌われないため」に、周りの行動に右に倣えする「同調行動」や、受けた恩に報いる「返報性」などが備わっています。こちらは、本記事のテーマからは脱線するので、深入りはしません。
今回触れたいのは、後者の「仲間に”自分が役に立つ“と示す」の方です。
「役立たず」の地位から抜け出さなければならない
最低基準として、集団内での「役立たず」の地位からは脱しなければなりません。
理由は前述の通り、集団から追い出される可能性が高まるからです。
こういったやり取りがあったかはわかりませんが、次のようなシーンもあったかもしれません。
寒冷な気候で食糧が満足に取れず、食べ物が集団の全員に行き渡らない。という状況に陥ったとしましょう。
集団の構成員を選別して、誰かを集団から追い出さなければならない。こうなったら、追い出されるのは足手纏い。集団の役に立たない人間から切られるはずです。
ひょっとすると、大自然に実りを祈願して、人身御供(つまり生贄)を捧げたかもしれません。選ばれるのは、やはり集団の役に立たない人間でしょう。
みんなの役に立たないお荷物なんだからさ、ここで生贄として、仲間の役に立ってくれよ。名誉ある死を賜ってくれ、と。
いつ何時も命の危機に晒されないためには、「私は集団の役に立つ人間だよ!」と、普段から周りにアピールし続けなければなりません。
- 狩りが上手なのか
- 木の実集めが上手なのか
- 料理が上手なのか
- 裁縫が上手なのか
- 医術に長けているのか
- 占いがよく当たるのか
何かしらの方法で、集団により貢献できる人間であると証明しなければならない。だから、他人の行動をよく観察して、周りと比較した自分のポジションを確認するんですね。
社会的な地位を確認して、自分より下がたくさんいれば安心するわけです。また、社会的な地位が上がるほど、命の危機が遠ざかっていくわけです。
逆に、他人と比べて劣っているのに安穏としてしまっては、命が危険に晒されます。だから脳は、あなたを絶望させて、「もっと頑張れよ!」と尻を叩くのです。
もしあなたが病気がちで、稼ぎも家事も子育てもパートナーに依存しているとしたら、焦燥感を感じるのではないでしょうか?
「ああ、わたしは何の役にも立ってない…」と。
その焦燥感の先にあるのは、「このままだと追い出されるかもしれない…」という恐れです。実際には追い出されなくても、本能はそう解釈します。
少しでも体調を整えて、何とか家族のために貢献しなきゃと思うはずです。パートナーの仕事ぶりを見て、せめて同じくらいの役割を果たしたい。そう思うはずです。
他人と比べる感情は、人間にとって自然なことなんだね
そっ。比べちゃうのがデフォルトなのよ
世間体のために死を選ぶ唯一の生き物
人間は、集団内の「評価」や「序列」という、目には見えないもう1つの空間に生きています。この空間には、あなたもよく知った名前がついています。
「世間体」というやつですね。「メンツ」と言っても良いでしょう。
群れで暮らす他の動物にも、集団内のヒエラルキーは存在します。しかしそれは、単に腕っぷしの強い順で、現にある力関係です。世間体のような虚構ではありません。
どうやら、世間体を生きているのは、人間さまだけのようです。
その証拠に、世間体のために自死を選ぶ動物は、人間だけです。基本的に、他の動物は自殺しません。
生物(動物も植物も)に共通するもっとも原始的な本能は、「自分の遺伝子のコピーを残すこと」と「生存すること」です。自分から死を選ぶとは、あまりにも不自然な行為。
人間にとって、「世間体」という目に見えない空間は、時に自分の命よりも優先しなければない理由があるのでしょう。
これはボクの個人的な考察ですが、おそらく「世間体」は、個人で完結しておらず、血を分けた一族にまで延長されているのではないかと思います。
もしあなたがヘマをして世間体を傷つければ、あなたの親兄弟や子供たちまで立場を危うくしてしまう。しかし、あなたが名誉ある死を賜れば、一族の立場を守ることができる。
自分の命を犠牲にする代わりに、自分と同じ遺伝子を受け継いでいる家族に、遺伝子リレーのバトンを託す。これが一つの、自死の合理的な説明なのかなと思っています。
切腹を受け入れた武士は、名誉ある死を賜ることで、一族の未来を守ろうとしたのかもしれません。オスのカマキリが、産卵の後で、メスに食べられる人生を受け入れる感覚に近いのかも。
これは意欲的な仮説なので、取りに足らない話と思っていただいて構いません。
動物園で見るように、サルもゴリラも群れで生きる社会的動物です。でも、サルやゴリラの世界に「世間体」はありません。
人間には、他の動物を凌駕するほどに、他者との優劣を競う強烈な本能が備わっています。この事実だけは、知っておいてください。
状況証拠的に、人間ほど社会に依存して生きている動物はいないんじゃない?
それだけ、社会から追い出されないために、社会的地位を強く意識してしまうということか
現代社会で起こっているバグ
ここまでで、人間の脳に、「他人と比べる思考」がこびりついているワケを解説してきました。意欲的な説を含んでいますが、当たらずとも遠からずかと思います。
ざっとおさらいしておきましょう。
- 他人と比べる思考は、脳の働きによるもの
- 脳も臓器であり、進化の産物。進化は、100年や1000年のスパンでは変化しない
- 他人と比べる思考は、まだ狩猟採集民だった祖先の頃にチューニングされたまま
- 当時の祖先は、全員が顔見知りの血縁集団で、助け合って暮らしていた
- 集団から追い出されたら、イコール死が待っている
- 集団から追い出されないためには、集団の役に立つ人間でなければならない
- だから、相対的に自分が役に立っているかを気にして、集団内の序列を意識する
全員顔見知りの血縁集団で暮らしていた我々の祖先にとって、他人と比べることは、命を守ために必要な行動でした。
しかし、現代の人間社会はどうでしょうか?
大規模かつ複雑な社会システムになり、もはや顔見知りによる集団生活ではなくなりました。知らない誰かが寄り集まって、助け合って生きる社会になったのです。
- あなたの知らない人が、あなたの家に水を届けてくれる
- あなたの知らない人が、あなたの食べ物を生産してくれる
- あなたの知らない人が、あなたを犯罪者から守ってくれる
- あなたの知らない人が、あなたの子供に教育の機会を作ってくれる
あなたが他人と比べて劣っていたとしても、命の危機に瀕することはありません。
あなたの年収が低かろうが、テストの偏差値が低かろうが、見た目がどうであろうが、日本から出ていけとは言われません。それどころか、生活保護や職業支援のようなセーフティーネットまで揃っています。
確かに!社会は構成員に優しくなったんだな!
現代においては、他人と比べる思考回路は、脳の過剰反応にすぎません。ちょうど、大して害のない花粉に、アレルギーが過剰反応してしまう現象と似ていますね。
要するに、人体のバグなのです。他人と比べる意味なんて、もうなくなっているのです。
あなたの本能は、命を守るために、他人との序列に常にビクついています。しかし実際には、ビクつこうがつかなかろうが、あなたの身の安全は守られています。
もう、他人と比較しなければ生きていけない時代は、とうの昔に過ぎ去っているんだね
資本主義の社会に生まれて
あらゆるものがお金で価値換算され、お金によって手に入る。それが、我々が生きる資本主義の社会です。
資本主義社会において、「役に立つ=お金になる」という暗黙の了解があります。お金を稼げる人が優れていて、お金を稼げない人は劣っている。多くの人がそういう価値観を持っています。
そのため、まず「どれだけ稼げているか?」で比べてしまうのが、現代人の典型的な思考回路になってしまっています。
そして次に比べられるのが、「お金につながる能力」ですね。
- 頭の良さ、学歴
- 資格
- 語学力
- 容姿
- フォロワー数
- 人脈
- その他、ビジネススキルなど
で、その優劣に一喜一憂してしまうのです。
逆に、お金につながらない能力は注目されません。目が良いとか、耳が良いとか、人の気持ちに共感できるといった能力は、お金につながらないから比べる対象にならないわけです。
あなたが他人と比べて、落ち込んだり焦ったりするのは、おそらくお金に絡んだステータスではないでしょうか?
子供の頃は無邪気に「足の速さ」とか「垂直跳びの高さ」で競ってたけど、大人になるとお金にピントが合っていくでしょ?
そうかもしれないな。お金が絡まなければ、ジェラシーはあんまり感じないかも
あなた自身の「幸せ」のために生きよう
現代を生きるあなたは、他人と比べて優位に立つことに、人生を捧げる必要はありません。祖先の暮らしと違い、ごく少ない選択肢しか選べない環境でもありません。
じゃあ、どうすべきか?
あなただけの「幸せ」を追い求めるべきでしょう。現代に生まれたあなたは、幸運にもその権利がある。なぜその権利を行使しないのか?
あなたの前には、無限の可能性が広がっています。どんな道を選んだって構わないんですよ?
人生はマラソンのようなものと言われますが、人生のマラソンは、人によって走るコースもゴールも違う。あなたと競い合うランナーはいない。競う相手がいないのだから、勝ちも負けも存在しません。
強いていうなら、あなたが「こうありたいと願った未来の自分」だけが、あなたの比較対象です。「理想の自分にどれだけ近づけたか」だけが、あなたが関心を持つべきことです。
- 年収ウン千万稼いでるとか
- フォロワーが何万人いるとか
- 学歴がどうとか
- どんな車に乗ってるかとか
- どんな家に住んでいるかとか
それが本当に、あなたにとっての幸せなんでしょうか?
あなたが幸せに生きるために、いくらかのお金といくらかのフォロワーが必要になることはあるでしょう。しかし、それは大した数字にはなりません。年収3000万とか、フォロワー5万人なんて、全く必要ありません。
あなたが必要な分だけ持っていれば良いのです。そこに他人は一切関係ありません。他人よりたくさんのお金やフォロワーがいることは、あなたの幸せとは何の関わりもありませんから。
他人と比べて勝っていれば、その場は良い気分になるでしょう。脳はそういう風にできてますからね。でもその優越感は、あなたの人生までは幸せにはしてくれません。
他人と比べてどうのこうのなんて、どうでもいい!
どこ見て生きてんの?って話よ
真っ直ぐに、自分の幸せを見据えて生きていこう!
憧れるのはやめましょう
そういう意味では、「わたしも〇〇さんみたいになりたい!」という憧れの感情も、ちょっとズレています。
なぜなら、あなたにとっての幸せは、あなたの中にしか存在しないから。
似ている幸せを描いている人はいるでしょうが、全く同じはあり得ません。これは、あなたと同じ人間が2人いないのと同じ話です。
あなたと「〇〇さん」は、別のコースを走っています。比較的近いコースを走っているかもしれませんが、厳密には別のコースです。
あなたのコースを走っているのは、あなた1人だけ。前を走っている人はいない。それどころか、横にもいないし、後ろにもいない。
その「〇〇さん」は、あなたの前を走ってはいない。だからこそ、憧れる必要も、羨む必要も、妬む必要もない。もちろん、比べる必要もありません。
「凄いなぁ」とか、「参考にしよう」は良いけど、「あの人みたいになりたい」は違うよね
「エキストラ」のために、人生をムダにするな!
あなたという物語の主役は、もちろんあなた。主要登場人物は、あなたの家族と、特に大切な友人だけ。
それ以外は、すべてエキストラです。
- 上司も同僚も
- 隣近所も
- 学校の先生も
- 町内会の人も
- コンビニの店員も
- いつも同じ電車で見かける誰かも
みんなエキストラですね。
もちろん、エキストラもあなたという物語に必要な配役。しかし、その1人1人は、あなたにとってかけがえのない人ではありません。別に誰でも構わない、代えの効く存在です。
取るに足らない人に良く思われるために、人生を擦り減らすのはナンセンス。エキストラにどう思われたところで、あなたの人生は幸せにも、不幸せにもなりません。
代えの効く人にどう思われても関係ないのにね。見栄ってイヤだね
あの世に持っていけるのは思い出だけ
あの世には、金も名誉も美貌も持っていけません。最期の瞬間に、幸せに過ごした過去の思い出だけを噛み締めて旅立つのです。
ボクだったら、愛する家族に看取られて、本当に好きなことをやって生きて、「ああ、よくがんばった。フツーだけど、最高の人生だったな」と思いながら逝きたい。
ボクもあなたも、そんな満ち足りた最期を迎えるために生きている。決して、どうでもよい誰かに、見栄を張るために生きているわけじゃありません。
生まれ変わっても、また自分になりたい。あるいは、生まれ変わっても、この人生の続きをやりたい。そう思える人生を全うするために、あなたは生きているのです。
よく感じるんだけどさ、「あの世には何も持っていけない」って、知らずに生きている人が多いんじゃないかな?
あー、頭ではわかってるけど、行動はそうなってないってことね
「スポーツ」と「アート」の違い
少し違う角度から、人生哲学を語ってみましょう。あなたは、「スポーツ」と「アート」の違いを考えたことはありますか?
色んな表現の仕方があると思いますが、ボクは次の違いがあると思っています。
スポーツ | アート |
---|---|
「やって良いこと」が決まっている | 「やっちゃいけないこと」が決まっている |
「与えられたゴール」を追い求める | 「自分で決めたゴール」を追い求める |
「勝者」と「敗者」が存在する | 「勝者」も「敗者」も存在しない |
ちなみに、「スポーツ」と「ゲーム」は、完全に同義語だよ
日本の感覚だと、体を動かすゲームをスポーツって呼んでる感じだね
サッカーは、所定のボールを、手を使わずに、フィールドの両端に据えられた相手側のゴールに叩き込む。というゲームですね(細かいルールは蛇足なので省略)。
また、Jリーグにしろ、天皇杯にしろ、ワールドカップにしろ、決まったレギュレーションの中で、勝者と敗者を決めます。
こういう、枠の中で与えられたゴールを競うのが、スポーツでありゲームです。
人生は「アート」だ!
一方で、アートには決まったゴールがありません。各々が、好きなゴールを決めて良いのです。言ってしまえば、「自己満足」の世界です。
絵を描くにしても、曲を作るにしても、映画を撮るにしても、皆それぞれに目的があります。どんな結果になっても、本人の納得いくものなら、誰が何と言おうが成功です。
余談ですが、ボクは「アートのスポーツ化」が、あまり好きではありません。例えば、高校生が、俳句や活け花を競うような大会とかですね。
本来なら自由な感性でやれば良いものを、審査員がシャシャリ出てきて、点数をつける。高校生たちは、審査員に評価されるような作品を作る。
うーん…。ゲームにしたことで、エンタメとしては面白くなっているかもしれません。
しかし、創造の羽を自由に伸ばせるアートとしては、実につまらなくなりました。自ら枷につながれて、勝った負けたで一喜一憂する世界に変わってしまう。実に残念です。
人生やビジネスは、本来ならば、典型的なアートです。それぞれが全く違うゴールを持ち、それぞれが自分なりのやり方で、望む未来を手にしていくものです。
人生を「スポーツ」の枠にはめないで
にも関わらず、多くの人が、人生やビジネスをつまらないスポーツに変えてしてしまっています。いくら稼いだか、何万人フォロワーがいるか、というスポーツに。
誤解なきように言っておくと、スポーツそのものがつまらないんじゃないですよ。本来枠のないアートを、わざわざスポーツの枠にはめてしまう行為がつまらないのです。
誰かが金メダルを取れば、あなたは銀メダル以下に甘んじるしかない。これがスポーツの世界です。スポーツにするから、他人と比べることになってしまうのです。
本来は競う道理などなかったのに、稼ぎとかフォロワー数で競うもんだから、他人と比べてしまい心が濁るのです。どこまでいっても上はいますから。ああ、アホらしい。
繰り返しますが、人生はアートです。
あなたは、あなたが自分で決めた「幸せ」を追い続ければ良いのです。他の誰がどんな成功していようが、どんなに目立っていようが、あなたには関係ありません。
仮に、あなたと似たような幸せの形を持っている人がいたとしましょう。その人があなたより先に幸せを手にしたからと言って、あなたが幸せを獲得できないことにはなりません。
ね?他の人は関係ないでしょう?
最後に
今回は、ノウハウは一切なしで、自己啓発本みたいなことを話してみた
比べちゃう気持ちは本能だから「0」にはできないけど、理解すれば「ああ、またこの感情か」って冷静になれるよね
そ!それがメタ認知だ!
一歩引いて外側から見ることで、暴れ回る本能から自分のコントロール権を取り戻そう!
随分と周りくどく話してきましたが、他人と比べてしまう本能がなぜ備わっているのか、よく理解できたと思います。
偉そうにこんな話をしていますが、ボク自身も悟りきった聖人ではありません。悩みも煩悩も抱えた、普通の人間です。そんなスゴい奴じゃありません。
でも、他人と比べるステージは、とうに卒業しました。
ボクが会社員の頃は、営業とか新規事業とかをやっていたんですが、とにかく競争の中で生きていました。競合他社と競争して、社内でも競争して。
でも、途中で気づいたんですね。
これ、なんか意味あるん?と。30歳くらいのときだったと思います。ちょうど、結婚して、奥さんが妊娠していた頃くらいですね。
そう気づいてからは早かった。実はなかなか良い会社に勤めていて、社内の評価も高くて、世間的には良い感じのキャリアを歩んでいたんですが、どうでもよくなりました。
- 大企業正社員のステータスがなくなる?
- 後輩がボクより出世する?
- 年収が激減する?
あー、どうでもいいっす。興味ないっす。こうなりました。
実を言うと、社内のストックオプション制度(自社株を安く買える制度)で、あと1年在籍すると結構な額が手に入ったのですが、それでも辞めました。
いち早く、自分の幸せのために、また当時1歳だった長女と過ごす時間を大切にするために、迷いなく辞めました。
辞めてからは、実に心穏やかな日々です。30代にして、早くも第二の人生が始まった感じ。というよりも、数年おきに次の人生がやってくるような感じです。
いつも頭に思い描くのは、自分や家族がどういう未来を過ごしているか。そこに、他人は関係ありません。誰かと比べることも、誰かをうらやむことも、妬むこともありません。
何と解放された気分!いやー、もうかつての日々には戻れない 笑
これは気づくか、気づかないかの話です。気づいた人から、こちら側のステージにたどり着けるのです。さぁ、あなたも早くこちら側に来てください。
コメントを残す